トップデッキとかの話(Hormone)
2016年6月10日 TCG全般 コメント (2)とあるプレイヤーのミスの話。
フォーマット:スタンダード
自分:白黒コントロール
相手:4Cハスク
自ライフ:9
自戦場:非土地パーマネントなし、土地は白黒ミシュラン含めた6枚
自ハンド:苦渋の破棄と土地
相手ライフ:いっぱい
相手戦場:ナントゥーコの鞘虫1、地下墓地の選別者2、土地5枚
相手ハンド:なし
自ターン
ハンドの土地置いてエンド
相手ターン
トップした現実を砕くものをキャスト、フルパンチ
→白黒ミシュラン起動
→鞘虫をブロック
→相手当然鞘虫自爆、9点通って死亡
「トップデッキ」と「プレイングスキル」について考えさせる非常に良い事案だと思う。
もちろん事案であることは前提で。
この人、この直後に「俺白黒コン合ってるわ!」とか言い出した模様。
まぁ名前はあえて伏せておこう。
本命のお題記事はこちら
http://gathered.tokyo/archives/318
スゲー簡単に言うと
「負けた奴に『ハイハイ運が良かったね』みたいな態度取られると腹立つよな!
ん!?でも何で腹立つんだ!?俺がマナカーブ通りに引けたこと、必要なカードを引けることで勝ったことは事実だよな!
俺は本当に運がよくて勝っただけなのか!!???ちょっと考えようぜ!」
な記事
俺が「トップデッキ」というものについて考えるきっかけになったのが、
プロツアーマジック2015の準々決勝、市川ユウキ対Jackson Cunningham。
「瀬畑のゴルチャ」で有名なあのプレーだけど、俺があのゴルチャを見た瞬間に戦慄を覚えたのが前のターンの瀬畑のブロック宣言だった。
ハッキリ言って不可解で「それって勝ちに繋がるのか?」ってプレイングに見えた。
だけどそれが次のドローのゴルチャで逆転できる、ほぼ唯一のブロックだった。
ゴルチャをトップしたのは偉い。すごい。
だけど、前のターンのブロック選択を正解していなければ、ただの紙くずだった。
このことで
「トップデッキで勝つということは、トップデッキで勝つためのありとあらゆる人事を尽くすということ」
というのを知った。
ただ、「知ってる」と「分かってる」と「できる」は違うんで、
まだ自分が分かってる段階にいるとも思えない。
その証左とも言えるのがGP東京で、白緑トークンだか人間だかを相手にした時
「3枚目のアヴァシンを引かれなければなんとかなるが、3枚目のアヴァシン引かれたらどうしようもない」
という状況になって、正にそれを引かれた時
「っかー、3枚目引かれるんじゃなー 3枚目は無理だわー」
なんて延々と吐いてしまった。
相手の方は気分悪かったと思う。申し訳ないことをした。
さて振り返ってみるに、俺は本当に「3枚目を引かれたんじゃどうしようもな」かったのか?
それを何とかするプレイングはできなかったのか?
それを何とかするキープはできなかったのか?
それを何とかするサイドボーディングはできなかったのか?
それを何とかするデッキ構築はできなかったのか?
それを何とかするデッキ選択はできなかったのか?
この五重の問にすべてイエスと答えることができない。
ベストを尽くした実感がない。
「自分がベストを尽くすことで、自分のトップデッキを逆転カードにも紙くずにも変えることができる」
を違う方向から見ると
「自分がベストを尽くさないことで、相手のトップデッキを神カードに変えてしまえる」
にもなるのだ。
ここで冒頭のkeiponの話に繋がる。
ここまでミスが際立つケースも珍しいが、近いケースで
「あそこでクラッシャー引かれたら無理だわ」などと思考を停止していないだろうか。
その前の段階で本当にミスはなかったのか、常に検証する必要はあるだろう。
なぜなら、ライブラリーから次に何を引くかは(ほぼ)100%運だが、
デッキ選択・デッキ構築・サイドボーディング・キープorマリガン・プレイング
には運の介在する余地がないのだから。
麻雀もこの部分似てるよね。
山から何をツモるのかは100%運だけど、手牌から何を切るのかは100%自分の選択。
運何割技術何割って議論自体にあんまり意味がない。
Hormone
フォーマット:スタンダード
自分:白黒コントロール
相手:4Cハスク
自ライフ:9
自戦場:非土地パーマネントなし、土地は白黒ミシュラン含めた6枚
自ハンド:苦渋の破棄と土地
相手ライフ:いっぱい
相手戦場:ナントゥーコの鞘虫1、地下墓地の選別者2、土地5枚
相手ハンド:なし
自ターン
ハンドの土地置いてエンド
相手ターン
トップした現実を砕くものをキャスト、フルパンチ
→白黒ミシュラン起動
→鞘虫をブロック
→相手当然鞘虫自爆、9点通って死亡
「トップデッキ」と「プレイングスキル」について考えさせる非常に良い事案だと思う。
もちろん事案であることは前提で。
この人、この直後に「俺白黒コン合ってるわ!」とか言い出した模様。
まぁ名前はあえて伏せておこう。
本命のお題記事はこちら
http://gathered.tokyo/archives/318
スゲー簡単に言うと
「負けた奴に『ハイハイ運が良かったね』みたいな態度取られると腹立つよな!
ん!?でも何で腹立つんだ!?俺がマナカーブ通りに引けたこと、必要なカードを引けることで勝ったことは事実だよな!
俺は本当に運がよくて勝っただけなのか!!???ちょっと考えようぜ!」
な記事
俺が「トップデッキ」というものについて考えるきっかけになったのが、
プロツアーマジック2015の準々決勝、市川ユウキ対Jackson Cunningham。
「瀬畑のゴルチャ」で有名なあのプレーだけど、俺があのゴルチャを見た瞬間に戦慄を覚えたのが前のターンの瀬畑のブロック宣言だった。
ハッキリ言って不可解で「それって勝ちに繋がるのか?」ってプレイングに見えた。
だけどそれが次のドローのゴルチャで逆転できる、ほぼ唯一のブロックだった。
ゴルチャをトップしたのは偉い。すごい。
だけど、前のターンのブロック選択を正解していなければ、ただの紙くずだった。
このことで
「トップデッキで勝つということは、トップデッキで勝つためのありとあらゆる人事を尽くすということ」
というのを知った。
ただ、「知ってる」と「分かってる」と「できる」は違うんで、
まだ自分が分かってる段階にいるとも思えない。
その証左とも言えるのがGP東京で、白緑トークンだか人間だかを相手にした時
「3枚目のアヴァシンを引かれなければなんとかなるが、3枚目のアヴァシン引かれたらどうしようもない」
という状況になって、正にそれを引かれた時
「っかー、3枚目引かれるんじゃなー 3枚目は無理だわー」
なんて延々と吐いてしまった。
相手の方は気分悪かったと思う。申し訳ないことをした。
さて振り返ってみるに、俺は本当に「3枚目を引かれたんじゃどうしようもな」かったのか?
それを何とかするプレイングはできなかったのか?
それを何とかするキープはできなかったのか?
それを何とかするサイドボーディングはできなかったのか?
それを何とかするデッキ構築はできなかったのか?
それを何とかするデッキ選択はできなかったのか?
この五重の問にすべてイエスと答えることができない。
ベストを尽くした実感がない。
「自分がベストを尽くすことで、自分のトップデッキを逆転カードにも紙くずにも変えることができる」
を違う方向から見ると
「自分がベストを尽くさないことで、相手のトップデッキを神カードに変えてしまえる」
にもなるのだ。
ここで冒頭のkeiponの話に繋がる。
ここまでミスが際立つケースも珍しいが、近いケースで
「あそこでクラッシャー引かれたら無理だわ」などと思考を停止していないだろうか。
その前の段階で本当にミスはなかったのか、常に検証する必要はあるだろう。
なぜなら、ライブラリーから次に何を引くかは(ほぼ)100%運だが、
デッキ選択・デッキ構築・サイドボーディング・キープorマリガン・プレイング
には運の介在する余地がないのだから。
麻雀もこの部分似てるよね。
山から何をツモるのかは100%運だけど、手牌から何を切るのかは100%自分の選択。
運何割技術何割って議論自体にあんまり意味がない。
Hormone
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